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日本で初めて登山ガイドの組織を作り、登山の安全のために山小屋を建てた百瀬慎太郎。その先見的な取り組みは、現在の登山に受け継がれている。
登山ガイドの先駆けとなり近代登山の発展に寄与
百瀬慎太郎(ももせ しんたろう)は、現在の信濃大町の中心地にある旅館・對山館(たいざんかん)の二代目・金吾の長男として明治25(1892)年に生まれた。2歳の時に火傷を負い、右眼の視力を失う。中学卒業後は進学を希望したが、渋々家業を継いだ。葛藤の多かった慎太郎だが、中学2年の夏、友人に連れられ白馬岳を登頂して以来、山の魅力にのめり込むようになった。

その頃、世の中は近代登山の黎明期だった。実は慎太郎が1歳の時、英国人宣教師ウェストンが對山館に宿泊。のちに再会し、交流を深めることになる。對山館には歌人の若山牧水(わかやま ぼくすい)、登山家の槇有恒(まき ゆうこう)など、多様な分野の人が交流して活況となった。


大正5年(1916)年、大町に鉄道が通ると登山者が増加。山の案内人手配に苦労した慎太郎は、まとめ役を買って出て、翌年に大町登山案内者組合を設立。親切丁寧な接客、後輩への指導、情報共有など、案内人の質を高める心得を定めた。組合の評判は高く、登山ガイド組織の先駆けとなったのだ。

慎太郎の残した仕事でもうひとつ大きいのは、山小屋の設置だ。まずは針ノ木雪渓へ続く篭川谷大沢出合の石室の傍に、木造の小屋を建てた。針ノ木~立山の登山に失敗した時、厳冬期には石室が役立たないことを痛感したからだった。
それから2年後の昭和2年(1927)、早大山岳部雪崩遭難の救助活動では大沢小屋が重要な役を果たし、慎太郎は山小屋の必要性を確信。昭和5年(1930)には針ノ木峠に木造平屋建ての針ノ木小屋を竣工する。
對山館は戦中に暖簾を下ろし、慎太郎は昭和24年(1949)に56歳で逝去。しかし現在も2つの山小屋は登山拠点として親しまれ、慎太郎の曽孫・陽(よう)氏が志を受け継いでいる。

文/朝倉由貴 写真協力/大町市立山岳博物館
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