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城主が激しく入れ替わった戦国時代の犬山城
犬山城の別名を白帝城という。江戸時代の儒学者・荻生徂徠が、城の情景が李白の詩にある白帝城に似ていることを讃えて名付けたといわれる。
望楼型三重四階の美しい天守が川のほとりで緑に包まれてそびえる姿は、確かに『三国志』の舞台となった古城を思わせなくもない。
木曽川を背にした後堅固の平山城である。こちら側は愛知(尾張)で対岸は岐阜(美濃)。国境に位置する犬山は、戦国時代には争奪が繰り返された国盗りの要所だった。
城の歴史は天文6年(1537)、織田信長の叔父にあたる織田信康が近くの木之下城を移したことに始まる。永禄8年(1565)には信長が奪い取り、池田恒興に与えたのち、信長の子・勝長が城主になった。
次に城主が激しく入れ替わるのは天正12年(1584)の小牧・長久手の戦の時だ。織田信雄の家臣として犬山城を守った中川定成の伊勢出兵中を狙い、池田恒興が城を奪還、羽柴秀吉も入城する。
しかし長久手で池田は戦死。この1年間で城主(城代)は実に4人も替わっている。
関ヶ原後の慶長6年(1601)からは徳川方の支配下になり、元和3年(1617)に家康の側近、成瀬正成が付家老として領地を拝領。以後、成瀬家が代々の城主を務めてきた。
明治時代には県の所有となった犬山城だが、それからの歴史も興味深い。明治24年(1891)の濃尾地震で天守は大きな被害を受けた。県では改修できない。それで成瀬家に修理を条件に譲渡されたのだ。
平成16年(2004)に財団法人に移管するまで、犬山城は日本で唯一の個人所有の城だった。
天守のそばに残る大杉は築城前からあったとされる。樹齢650年で枯れたが今も城の守り神。
天守の創建や構成には現在も数多くの謎が残る
この城にはいくつもの謎がある。まずは天守がいつ建てられたかだ。昔は、関ヶ原の戦いの前に美濃金山城を移築したというのが定説だった。
「けれども昭和36年からの解体修理で否定されました。移築の痕跡が一切残っていなかったんです」と犬山城管理事務所長の佐々由高さん。
「この時、2階までは創建時のもので、2・4階は成瀬正成の時代に増築したこともわかりました」
内部に入ってみよう。野面積みの堅牢な石垣に守られた穴蔵から1階に上がる。ここにも謎がある。2階は矩形なのに対し、1階は東側の一辺が斜めになっているのだ。
「なんのためなのか不明ですが、入側の幅を調整することで歪んだ部分と2階部分を上手くつないでいます」と犬山城白帝文庫学芸員の寺岡希華さん。
武者走りには高い敷居がある。畳が敷かれていたのか。中央の「武者隠しの間」は今も畳。猿頬天井が張られ、床の間や違棚、帳台構もある。
乱世を生き延びた天守にしてはあまりに優雅な造りである。2階は「武具の間」で、こちらには敷居はない。
唐破風と入母屋破風を配した3階を過ぎると望楼だ。廻縁をぐるりと歩ける。眼下の木曽川や山並みの眺望が素晴らしい。壁には華頭窓が4つあるが「これもなぜか後から塗り籠められています」と寺岡さんは話す。
「謎が多いから面白い」と佐々さん。
「ここは美濃を威圧する城。小さな天守ですが、対岸から見るとどえりゃー美しいでしょう?」
左/1階武者走りの窓。格子は一カ所だけ横向きについている。その理由もいまだ不明という。中/望楼は 3 間×4 間のこぢんまりした空間。成瀬家歴 代の肖像もかかる。付家 老だった成瀬氏は名古屋か江戸に常駐し、犬山城天守に入ることはほとんどなかったという。右/1階はこれも謎とさ れる、一辺だけが斜めになった不等辺四角形。
今は天守のほかは城郭の石垣しか残っていない犬山城跡だが、歴史も景観も、また内部の謎も奥深い。時間をかけてじっくりと楽しみたい。
犬山城|いぬやまじょう
愛知県犬山市犬山北古券65-2
TEL:0568-61-1711(犬山城管理事務所)
開城時間:9:00〜17:00(入館は16:30まで)
休城日:12月29日〜31日
入場料:550円
アクセス:名鉄「犬山駅」より徒歩約20分
※開城時間等についてはHP等で要確認。
文/秋川ゆか 撮影/佐藤佳穂
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