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昭和30年代、長距離の旅は
夜行列車の利用が必然だった
ぼくが初めて乗った寝台車は、特急「さちかぜ」だった、と思われる。3歳になった春、父の故郷である九州の天草まで家族で墓参りに行ったのである。
東京から長崎で汽車で向かい、長崎の郊外にある港町から船で天草に渡った。母の記憶によると、通勤電車みたいなロングシートの寝台車だったという。この内装から推測して当時「さちかぜ」に連結されていたC2等寝台ことマロネフ29形に違いない。まあ、よく似たマロネ29形が連結されていた急行「雲仙」の可能性もあるが、ここは「さちかぜ」としておこう。
この「さちかぜ」という列車は、昭和32年(1957)、前年から走り始めていた特急「あさかぜ」を補完する形で東京~長崎間の特急として新設された。
当初から寝台車中心の編成で、座席車も数両連結されていた。翌年列車名を「平和」に変更、さらに昭和34年(1959)には「さくら」となった。この時、車両を20系客車に置き換え、「あさかぜ」「はやぶさ」に続くブルートレインの第3号となった。

今、東京~九州間の移動といえば空路が当たり前。新幹線やフェリー、さらには高速バスといった手段もあるが、この時代は鉄道以外の選択肢はないに等しかった。
ちなみに「さちかぜ」に乗った昭和33年(1958)、東京~九州間の空路といえば東京(羽田)~福岡(板付)間に4往復あるだけ。機材はDC–4あたりと思われ、1日の輸送力は300人程度に過ぎなかった。それに対して鉄道は特急3往復、急行6往復で、輸送力は圧倒していた。
一方、列車は東京~九州間を一昼夜かけて結ぶ長旅となる。終点まで24時間以上かけて走る列車もざらで、特急は寝台車中心、急行も寝台車を組み込む編成となっていた。かくして我が家の墓参といえば、すなわち寝台車の旅となったのだ。
ぼくは中学時代から一人旅が許されたが、自分の小遣いでやり繰りするとなると、やはり寝台料金は馬鹿にならない。活発に動き始めた昭和45年(1970)で調べてみると、東京発着16日間有効の国鉄「九州周遊券」は学割で6600円だった。
自由席なら急行も乗り放題となるきっぷで、当時の汽車旅には欠かせない存在だった。この時代の寝台料金は一番安いB寝台上段で1100円。食堂車のカレーライスが180円だったので、結構な金額である。結局、通常は座席車を利用、家族旅行だけ寝台車ということになった。
高校の修学旅行で実現した
寝台特急「あさかぜ」への乗車

元祖ブルートレインとして有名な「あさかぜ」に乗ったのは、高校時代の修学旅行が最初だった。昭和47年(1972)3月のことである。
ぼくの通っていた高校では九州一周というなかなかバブリーな行程で修学旅行が行われており、往路は新幹線で新大阪まで出向いて寝台特急、復路は博多から東京まで直通の寝台特急となっていた。
生徒数が多いため全員同じ列車というわけにはいかず、ぼくには博多3月14日発「あさかぜ3号」が指定された。この時代の「あさかぜ」は東京~博多間2往復、東京~下関間1往復、合計3往復も運転されていたのである。
ちなみにこの年の3月15日には新幹線岡山開業を踏まえたダイヤ改正が行われ、「あさかぜ」にも変化があった。元祖ブルートレインとして活躍してきた20系客車も誕生から10数年を経て陳腐化、後継となる14系客車が開発された。量産先行車は急行「瀬戸」に組み込まれて前年から試用されていたが、寝台特急への起用はこの3月改正からだった。

ぼくの乗車日はダイヤ改正の前日。てっきり従来通りの20系客車と思っていたが、ホームに入ってきたのはなんと14系客車だった。ピカピカの車両を見て小躍りしたのは言うまでもない。ダイヤ改正の数日前から置き換えが始まっていたようだ。 ぼくにとっては初めての14系客車であり、驚きの連続だった。
当時のB寝台は3段式だったが、昼間は下段を座席として使っているため、中段が上下方向に動くという構造だった。20系はこれを手動で行っていたのだが、14系は電動化されていた。通路側の柱にこの操作スイッチが付いている。
また、寝台に上るとベッドの広さを感じた。20系は幅52㎝だったが、14系は70㎝もある。楽に寝返りを打てる広さだ。
触ったり、写真を撮ったりと大興奮状態のぼくを見て「さすがは鉄道研究部!」とクラスメートから笑われた覚えもある。独特な寝台列車の旅情が旅の楽しさを教えてくれた。

この時代が寝台特急のひとつのピークで、その後の新幹線延伸や空路の発達で衰退していく。移動の速達化により、寝ている間に目的地に着き、一日を有効活用できるといったメリットは影が薄くなった。結果、利用者が減り、減便。減便で乗りにくくなり、乗客はさらに減少。そんな悪循環が続いていく。
ぼくにとって暗黒の時代となったが、寝台車への特別な思いは消えなかった。ベッドで横になり、ダダンダンという列車の走行音を聞きながら寝入る。最高の子守歌だ。
深夜、ふと目が覚めることもある。多くはどこかの駅に停車している時だ。走行音は途絶え、車内は静けさで包まれる。途中から乗り込んできた乗客が通路を歩く音だけがやけに大きく聞こえる。カーテンの隙間を拡げたい衝動を抑え、どこの駅にいるのか想像するのも楽しいゲームとなった。
そして夜明けの時間。漆黒の空が徐々に明るくなり、やがて東の地平線からオレンジ色に色づいていく。ふだんの生活では夜明けの姿をじっくり観察することなどない。

寝台車を含む夜行列車の運行は国鉄からJRへと引き継がれた。しかしその多くが歴史のなかに走り去り、今では「サンライズ出雲・瀬戸」が唯一の定期列車となってしまった。
平成時代のぼくの旅は、消えゆく寝台列車を追う旅でもあった。
実際のところ、晩年の寝台列車の旅は苦行のようなものでもあった。楽しみだった食堂車は次々と休業、車両にしても傷みが目立った。乗り心地も芳しくなく、もはやストイックな移動手段でしかなかった。しかし、どこかに子どもの頃の夢が続いていることを信じ、それを探していた気がする。
汽車の中で夜を明かすこと――。
これは今の日本においてとても贅沢な旅の方法となってしまった。

写真提供・文/松本典久
1955年、東京都生まれ。鉄道ジャーナリスト。鉄道専門誌「鉄道ファン」などに寄稿すると共に、鉄道や鉄道模型に関する書籍、ムックの執筆や編著などを行っている。近著に『時刻表が刻んだあの瞬間――JR30年の軌跡』(JTBパブリッシング)、『東京の鉄道名所さんぽ100』(成美堂出版)、『Nゲージ鉄道模型レイアウトの教科書』(大泉書店)、『オリンピックと鉄道 – 東京・札幌・長野 こんなに変わった交通インフラ – 』(交通新聞社新書)など著書多数。
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